
お城にわくわく
趣味でワクワクでは、「ワクワク」しちゃうことを自由にアップしていきます。
今回は、歴史にワクワク→お城にわくわくです。
歴史は好きなのですが、学生時代に勉強してこなかったため、時代も飛んでいますし、順番すらよくわかっていません。ただただ、歴史がスキなだけです。
戦国時代に生きていたのかも…と思ってしまうほど、お城や刀や甲冑にこころが踊ります。
そんな筆者は、なんでもすぐに忘れてしまうので メモとして残しておきたい事を書いていきます! 「これは違うよ」とか、「もっと面白いことあるよ」などなど、何かございましたら、コメントくださいね。
できれば、ここに自分で書くよりも「教えてもらいたい!」‥というのが本音ですが…(笑)
駿府城は、秀吉も築城していた??

徳川家康が築いたとされている駿府城。
ところが、静岡市が2016年から4年間がかりで発掘調査をした結果、江戸城をしのぐ日本一の天守台のあとがみつかりました。
そして2019年の夏、豊臣政権が駿府城を築城したときにふかれた、金箔瓦を発見。
えー!駿府城に秀吉時代の金箔瓦が?なぜ?
駿府城は、徳川家康が築いたとされていましたが、そこから家康時代の天守台とは別の天守台の痕跡だけでなく、豊臣時代の金箔瓦がみつかるという事は…?
もともと駿府城は、秀吉が築城していたのでしょうか??
家康が駿府城にいたのは・・

現在、JR静岡駅の北側にある駿府城。
家康が駿府城にいたのは8歳~19歳今川家の人質だった時と、
駿府城を築城した44歳~亡くなるまでの2つの時期。
その間に、秀吉が駿府城を築城した時期があったという。
今回発掘された330個の金箔瓦と一緒にみつかった石垣は、
家康時代のものとは違い戦国時代末期ころの野面積み。
明らかに時代が違うそう。
これはいったい?!
家康が駿府城を離れることになる?

1560(永禄3)年 家康が19歳のとき転機が訪れました。
桶狭間の戦いで今川氏が織田氏に敗北したことから、家康は人質とされていた今川家の駿府城を離れ 信長と手を組み、三河、遠江、駿河と領地を広げました。
しかし、本能寺の変で手を組んでいた信長が姿を消しました。
その後 浜松城にいた家康は、関東まで勢力をのばそうとしている秀吉に備え、自分の城として駿府城を築城し、浜松城から駿府城へ居城を移しました。家康44歳。
力をつけた秀吉にこのまま攻め込まれては、太刀打ちできない。
話合いをしに秀吉のもとへ行ったのですが、「力を貸して欲しい」と言われ、 家康45歳の時仕方なく秀吉の家臣になりました。
これは、今まで自力で広げてきた領地を、秀吉から与えられた形になること意味していました。
きゃー!屈辱的!!
秀吉は、駿府城を拠点に天下統一を完成させる戦いに着手。
そのために、家康が築城したばかりの駿府城を貸して欲しいとの手紙送りました。家康は、それを受け入れるしかなかったのです。あくまでも「貸す」つもりだったそうなのですが・・。
その後、 秀吉は 20万の兵 で小田原攻めに入り圧勝し、天下統一を成し遂げたました。そして、家康に関東を任せる、江戸を本城とし駿府城を秀吉に譲るよう申しつけました。
いわゆる領地替え・・。
家康は、そのまま江戸に向かい駿府城へ戻ることはできなかったそう。
せっかく築城した城を、もともとは敵だと思っていた秀吉に奪われるとは…。可哀そうな家康公‥。
家康やられたらやり返す。日本最大級の天守台

家康を追い出した秀吉は、今までの家康の駿府城を全て解体して新しい駿府城を築城した。
その大きさは、大阪城に匹敵するくらいの大きな城だったそう。
駿府城を再建させた秀吉は、金箔瓦を作らせた。
その目的は、
・新しい領主がきたことを示すため
・前の領主より財力や権力を持っていることを示すため
そして・・・
1598(慶長3)年 家康57歳のとき、秀吉が死去。
1600(慶長5)年 家康59歳のとき、 関ヶ原の戦いに家康は勝利
1603(慶長8)年 家康62歳のとき、 江戸幕府を開く
その後家康は、秀吉の建てた金泊瓦の駿府城を壊して、新しく駿府城を築城したと考えられています。
その大きさは、南北68m、東西61mの日本一巨大な天守台だったと、今回の発掘調査でわかりました。
発見された330個の金箔瓦は、すべて割られていることから、
家康の駿府城が再建されるときに、意図的に破壊されたものではないかと言われています。
あの時の屈辱を晴らそうとしたのか?どうなのか??
攻める気がおこらない城づくり

家康は秀吉の金箔瓦に対し、瓦自体をより高価な白鑞(はくろう)や銅で作り、徳川家の財力をみせつけました。
それは、秀吉没後に残された秀頼に、江戸城を攻めを有効に止められるよう 防衛用として駿府城を築城させ 戦意をなくすような城づくりをしたのです。
駿府城によって秀吉は敗れた

1614(慶長19年) 家康73歳のとき、駿府城から出陣。
1615(慶長20年) 家康74歳のとき、豊臣氏滅亡
駿府城の石垣の石を運んできた大名は、150を超えるそう。
多くの大名は、駿府城の壮大さにひれ伏し、豊臣方にまわるより徳川と手を組んだ方が安泰だと思うようになったといいます。
駿府城築城に関わった大名は、徳川方に全部ついてしまい、豊臣方についた大名は一家たりともいなかったとか。
駿府城によって、豊臣は敗れたといっても過言ではないですよね。

駿府城築城・崩壊・再建

ということで、調査の結果、豊臣時代の駿府城があったことがわかりました。
今川氏の駿府城(家康人質時代)
↓
家康の駿府城
↓
秀吉によって再建された金箔瓦の駿府城
↓
家康によって再建された巨大駿府城
家康の町づくり

家康は、城以外に町づくりにも意をそそいでいました。
町中に何本も流れていた小さな川を1本にまとめ(安倍川) 、全長4キロあまりの土手を作らせたことで、地元を苦しめていた洪水が激減したそうです。
困っていた人々にとっては、神のような存在ですね。
治水の整った駿府は、その後も繁栄を重ねていきました。
現在人口70万人の静岡県の元は、駿府城にあったのですね。
1616(元和2)年 家康75歳のとき、駿府城で死去。
遺言した埋葬の場所は、静岡県にある久能山東照宮だったそうです。
豊臣の残党が蜂起して、再び争いにならないよう、ここから西を向いて平和な国づくりをしようという強い意志が感じられます。
お城を訪れた際には、昔の出来事にタイムスリップして、その時代を生きてきた人の気持ちや、考えていたことを妄想すると より楽しめます。
当時、天守台から眺めていた景色、お城に込めた想い、その想いに寄り添って、仕えてきた人々の願い…
みんなが平和で幸せに暮らせるように
平和な世の中にするために 戦ってきた人たちがいるから、今の平和な世の中があると思うと、感謝の気持ちでいっぱいです。
家康公も久能山東照宮から、今も見守ってくれているでしょう。

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